2013年2月26日火曜日

東京演劇集団風『ダンゼン・鉄はいくらか』

東中野。寂しい駅ですね。

レパートリーシアターKAZE、初めて行きました。広々としてる。いい劇場でした。

待合室でコーヒーを販売してた。
ぼく、コーヒーが結構すきなんです。どんな味なんだろう。だから飲んでみた。好奇心。
美味しかった。テーブルががたがたしてて、ちょっぴりこぼしちゃったのが残念。

ブレヒトというと、ずっと昔に『善人』ってタイトルだったかなあ、仮面劇を観たことがある。
どうして仮面劇だったのか。全然わかんなかったけど。関係ない話だね。昔の話だ。

今回のはブレヒトの『ダンゼン』という戯曲と『鉄はいくらか』という戯曲をミックスしてアレンジしたもの。
肉屋のダンゼンと鉄材商のスヴェンソン。このふたり、他国者=顧客の男によって同じような運命を辿る。
きっと同じ構造の物語だからくっつけやすかったんだね。
両戯曲とも読んではいないけど。

パンフレットのなかで、演出の江原早栽香さんが書いている。
「私は稽古場で、登場人物の行動がイロニーの精神を持って提示されることを繰り返し要求してきました。(中略)、彼らの滑稽な姿からいまの私達が持つ真の"悪"とは何かを問うためです」

ぼくの理解力が乏しいだけかもしれないけど、上の文には違和感がある。

観る側がイロニーを感じるのは、演出とか台本の構造からだと思うから。
登場人物である俳優に必要なのは、その演劇的状況に集中して生きることだけ。その行動にイロニーの精神を持ち込む必要はない。と思うんだけどな。
稽古場で、演出と俳優のあいだにどのようなやり取りがあったのか。あるいはなかったのか。ものすごく興味がある。

オリジナルの戯曲にはない人物が登場する。

過去、未来と時間を旅する語り手としてのフランス人女性。日本語では喋ってくれず。フランス語だけ。
電話で誰かとやり取りしている。「アロー」ぐらいならわかるけど、その他の言葉は聞き取れない。
彼女が喋ると同時に、日本語訳が後ろの壁に表示される。
でも読み取れない。「もしもし」ぐらいならぱっと読めるけど。込み入った詩的な言葉になると、それを理解するのには時間が足りない。
それにぼくは芝居を観に来たのであって、字幕の詩を読みに来たのではない。だからすぐに読むのはあきらめて、舞台の手前にいる俳優の動きを追うことにした。
だから字幕はほとんど読んでいない。

本当に字幕を読んで欲しいのならば、手前での俳優の動きなどもすべて停止すべきだ。
それにそもそもフランス語で喋る必要はない。日本語で喋るべきだ。そうすれば字幕は必要ない。
日本語が話せないというのなら、フランス人を配役するのが間違っている。演劇的に言うならね。だって日本人の観客を想定してるんだろうから。
フランス人である必要は?

演劇的以外の理由があった?

そもそも語り手の必要性もぼくは感じなかった。逆に手前で行われている芝居から気をそらす邪魔な存在としか思わなかった。メッセージ性は手前で行われている芝居に充分に出ている。
それをまたわざわざ言葉で述べる必要はない。(といってもぼくはほとんど読んでいないから、何について語っていたのかもホントは知らないんだけど)

いろいろと文句を並べてしまいましたが。
俳優のみなさんのアクションは素晴らしかったです。最初から最後までずっと釘付けでした。
そこに『イロニーの精神』などなく、純粋に役を演じていたように見えました。

最終日ということで、ホールで乾杯。ぼくもビールでいっしょに乾杯させていただきました。
こういうのっていいですよね。いい雰囲気でした。
役者のみなさんの素顔も拝見できて、ああ、こういう人だったのかと。
舞台上では皆さん白塗りでしたから。



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